博識、そして慧眼

 8月も残すところ数日になってしまった。それでもまだまだ暑い。熱中症には気をつけたいところだ。

 

 何かを楽しむにあたって、必要なこととは何なのか。ゲームにせよスポーツにせよルールというものがあり、そのルールに則って楽しむ必要がある。無秩序に好き放題やっても仕方がない。何か制約があるからこそ、そこに競争が生まれフェアに楽しむことが出来る。つまりルールに則るとは「楽しむ」ことに繋がる。しかし、幅広い知識、それに通づる目を持っていないと「充分に楽しむ」ことはできない。たとえば美術鑑賞。ただ眺めるだけではその作品のすごさは伝わらないし、知識がなければ価値も分からない。充分に楽しむためには美術家としての目が必要なのである。

 「楽しむ」ためには、一般技能や基礎知識だけでは踏み込めない領域が存在することを理解し、その領域に到達するまでの知識が必要なのだ。さりとて、充分に楽しむことができない人間は楽しんでいるとは言わないと言いたい訳では無い。「充分に楽しむ」ことが出来なくても、「思う存分楽しむ」ことが出来ればそれでいいという人は世に大勢いることだろう。自分もその大勢に属する。ただ、同じ趣味でも次元の違う人間同士では、食い違いも致し方ないと思うわけである。

 楽しむことを他人と共有することは容易ではない。する必要も無いと感じたことがあって、それ以来友達に趣味を言うことはしなくなった。共有するのではなく、同じ趣味を持った人を探す。だから、友達に何かを勧められるとか、強要されてもやる気にはならない。勧められたものを「楽しむ」知識や目を養うことができるとは思えないからだ。興味をそそらないものならなおのことだ。

 

 今年の夏は映画に行ったことと本を読んだことぐらいしか記憶にない。まあそれも、自分なりに夏を楽しんだ結果だ。

 

ミステリの住人

 暇だ。ここ数日、暖かい日が続いていて春の嵐も顔を出したがまた数日後寒い日が来るらしい。薄着も厚手の服もまだ必要などっちつかずな気候に踊らされてると感じる。明確なアジェンダもないままグダグダと続く討議のような日が目の前を過ぎていく。

 土曜日テレビをつけるとコナンが放送されている。見る度、マンガだなぁと思ってしまう。機械仕掛けの殺人、完全密室、怪盗による盗難。どれも現実では見れない芸当だ。何故なら物理的に可能な仕掛けでも心理的には実行不可なものが多いからだ。しちめんどうくさい仕掛けにわざわざヒントを残すやり方に違和感を覚えるのだろう。これが通用するのも彼らがどこまでもミステリの住人だからだと納得せざるを得ない。そんなことを考えていられる内は何を見たって暇しないのかもしれない。

 くだらない事を考えるのが好きだ。考えたところでクソの役にも立たないような脳に貯蔵されないこと。友達に言っても理解はされないが話のネタにはなる。こんなことを文字に起こしているのも時間を持て余している証拠だ。それにしても今は兎に角暇なんだ。

 

1UPキノコ

 夏が終わり近所の公園から蝉の声が減り、違う虫が鳴いていた。朝も涼しくなった。夏が終わると特に何もしてなくても、否応なしにノスタルジックな感じになる。小学生の頃、夏休み最後の日を如何にして過ごすか、どうすれば充実した一日になるかとかめっちゃ考えて、結局普通に一日終えるって言うのを思い出す。

 友人との会話は大体たわいもない戯言ぐらいでそこまで密度の濃くないものが多い。時々、何の話だったか分からなくなる時すらある。それが楽しかったり、非生産的な話よりもっとするべき話があるんじゃないかと思ったりするのだが、依然として何が良いのかまだ謎である。他の人は普段どんな話で盛り上がるのだろうか。

 秋というと「文化祭」と言うワードが頭に浮かぶ。でも正直言って、文化祭はあまり何かした記憶が無い。あるとすれば有志でバンドを組んでやったのと、校内でやってたバザーで売れ残ったハンガーを5個10円で押し売りされた記憶ぐらいだ。なんとも虚しい文化祭だなと思う反面、あれは楽しめる人が参加するからこそ楽しいものであってみんながみんな何も彼も享受して楽しめるものではないと思ってたりする。みんなが楽しめるものなんてあるわけがないと暗示をかけて、哀しい自分に救済の手を差し伸べるのである。

 これからは寒くなる。自分の中で夏は「冬と冬の間に挟まれた季節」と言う感覚がある。マリオのスターの効果が持続している間が夏に当たるという感じだろうか。つまり秋とは効果が切れた直後。無敵では無い。だから人は秋にきのこを食べるのかもしれない。

バームクーヘン

 随分と長い間話していない人が大勢いる。もう今やどうなってるのか見当もつかない。そんな中、1人、久々に連絡を取った友人がいる。懐かしさと自分の知らない内に変わった一面を見た戸惑いで今頭の中でぐるぐると一連の会話が廻る。人の性格は遺伝によるものではなく、その人を取り巻く環境によって構成される。環境が変われば人も変わる。自分の見知った当時の人物像と照らし合わせるとやっぱりどこか違っていて、まるで別の人と話してるように感じたりもした。それがなんだか寂しいというか、ぽっかり穴が空いたような感覚がある。「変わった」と思うのは、過去と現在の差を一挙に見せられた時だ。まさに今回がそれにあたる。とにかく、断絶された数年間で友人が自分にはあまり合わないオーラを纏っていたから、これからもうあんまり話さないだろうなとちょっと寂しさを感じた。

 その友人と話してからというもの、やっぱり穴が空いたような感覚がある。何かを失くした感覚。自分にその意識はないが、どこか淡交をもって良しとする自分がいるんじゃないかと思ったりする。ある程度距離があった方が人間上手くいくんじゃないかと思う気持ちも確かにあって、何が正解かとかは正直自分にはわからない。そんなことも相俟って、今、向こう側の景色を覗かせる大きな穴が一つある。バームクーヘンみたいな穴がある。

狐の嫁入り

 

 雨が降っている。雨の日は独特のにおいがする。苔が生えるんじゃないかと思うほどジメジメしている。小さい頃、狐の嫁入りが不思議でならなかったのを覚えている。俗に言う天気雨だが、地球がおかしくなったんじゃないかと思った。

こんな具合に、子供の頃は発見やら不思議がそこら辺に転がってて飽きることがなかったように思う。コロンブスがアメリカ大陸を発見したように、ヘルツが電磁波を発見したように、僕は泥団子を磨くとツルツルになることを発見したし、言葉は絆創膏にもナイフにもなり得ることを発見した。子供にとっては、偉人の大発見と同等のものがある。

 

  今となっては往時渺茫のことで、もう忘れてしまったことが沢山ある。小学校の頃の記憶なんて断片的にしか残っていない。色んなことを学ぶ時期に自分は何をしていたのか。もしかしたら自分は、2017年現在からこの星に突如発現したのではないかとか思ったりする。

 そんな宇宙人みたいなやつにも旧友がいて、久々に話すといろいろ思い出してノスタルジックになる。古い記憶を共有できる人がいるのはいいことだ。と言ってもまあ、十年前まで小学生だった若者に分類される身としては、古い記憶と言っていいのか正直わからない。これからもっと古くなる記憶をどれほど覚えていられるだろか。

 

 つい最近狐の嫁入りを見た。昔見たそれと照らし合わせて見ても、やっぱり不思議な光景だと思った。

メソッド

 もう近所の公園から蝉の声が聞こえてきて、夏の訪れを感じる今日この頃。長袖で外に出たことを後悔しながら、夏を感じている。

 

  最近立て続けに悪いことが起きていて、今ちょっとネガティブになっている。そこで友人は嫌なことは考えないようにしてポジティブに考えるようにすると言っていた。人によってこう言う時の処理の仕方には違いがあるんだなと思った。自分は皮肉屋だから、むしろ考え込んで辛いことを直視して(※マゾヒストな訳では無い)、あとは時間が解決してくれるのを待つと言うなんとも回りくどい方法を取る。割り切ることができずに悶々と考え込む人間はこうやって処理する他ないのである。どうしても考えてしまう。時効になってやっと安心することができるのである。比較的外交的な友人はおそらく理解できないだろう。友人が理解できないように、自分も友人を理解できない。つまりお互いの方法を理解することに意味はなくて、そういう方法もあるのだと知ることに意味を見出す必要がある。今もこうやって文字に起こして処理している。

 

 暑さに加えて気だるさもあるが夏は好きだ。かき氷に埋まりたい。