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七つの大罪

 七つの大罪と言えば聞いたことがある人も多いだろう。自分はその中で言えば、圧倒的に怠情である。つまり大罪を犯している。面倒臭いとか物事に意味を見いだすとたちまち怠惰の権化と化すのである。

 

 大罪なんて言い方してるけど、その大罪を一つも犯してない完璧な人間はどこか、人間味に欠けている気がしてならない。欲のない人間はおそらく何もしないし、何も出来ない。そいつらと上手く共存する必要があり、人間性を構成する上で必要な要素なのである。自分の一部であるが故に、呪いみたいに付き纏う。気に入らないことがあれば、妬み、憤怒し、威張り散らすのだ。

 

 穏やかで達観している人であれ、美醜を含んだ複雑な感情を抱えている。今も自分の中で七つの大罪が犇めき合って、表へ出ようとする。

砂時計

 自分はあまり友人が多いほうではないと思っている。多分そうだろう。今まで何百人と出逢ってきて、今ちゃんと話したりする人数は片手で足りてしまう。幼稚園から高校までに出逢ってきた大体の人数から計算すると、その中で「友人」と呼べる人は1%ぐらいだった。他の人がどうかは知らんが、友人なんてそんなもんだ。片っ端から誰でも友人だと言うのなら、もう少しいるだろうが、そんなことは無い。知らず知らずのうちに出逢った人の中で淘汰された人を友人と呼んでいるのだ。どんな綺麗事言ったって、みんな選んでる。そんなもんだ。

 

 SNSのフォロワーの人数=ステータスだと思っている人がいるが、果たしたそれはいかがなもんだろうか。そんな数字に執着したって、実際話すのはその極わずかではないだろうか。それに全く羨ましいとか思わない。別に多いのが悪い訳じゃないけど、その数値でもってしたり顔でいられても困る。

 

 どんな所にいても、人との繋がりを怠らない世の中で、世知辛い思いをしたことがないと言えば嘘になる。何でこんなこといちいち複数人でやるんだよと思うこともいっぱいあったし、グループ作れで困ったこともあった。でもそんな中でもまだ友人と呼べる人が何人か残っている。今まで幾度となく疎遠を繰り返した。いつかまた、今いる数人もどっか行っちゃうんじゃないかとか思ったりする。そうなった時自分はどうするだろうと考える。多分そんなにしつこく追いかけないだろう。去る者追わずのスタイルがここ数年で体に染み付いてしまった。1人でいる時間が好きだが、別に人を嫌ってる訳では無い。寡黙な性格してるから、多分話しかけずらいんだと自らを自己分析したりして、努力はしたがやっぱりそう簡単に性格は変わらなかった。それでも生憎、そう言う性格の自分が嫌いな訳でもない。周囲にどう思われようが知ったことではない。所詮自分の周りは大体が他人だから。それに気楽だ。人間関係のしがらみから解放されている分、他の人よりストレスが少ないんじゃないだろうか。多分、何言っても負け犬の遠吠えにしか聞こえないんだろうな。

 

 今、出逢ってきた何百人は何処で何をしてるのだろうか。もう随分話さなくなったあいつは何をしてるのだろうか。疎遠になった人達は砂時計の下に落ちていった砂だ。砂が落ちきっても尚、落ちずに上に残った砂を俺は大事にしたい。

よどむ

 誰かに言おうと、したためた心の声が溜まっていく。いざその時になると何故か言い淀んで自己完結してしまう。容器いっぱいに溜められた言葉が、容器を突き破って漏れ出す前に言わねば。

 

 まあ、コーヒーでも飲んで休もうや。

 

暗い暗い日

 目を覚ますと、外は曇天。何となく頭が痛い。

 

 

 僕はあまり朝食を食べることができない。トーストを一口食べたら、次の一口に時間がかかる。コーヒー1杯で終わることもしばしば。それでもなんとか押し込んで胃に入れる。

 

 

 自分の都合やらその日の気分で手の平を返すような奴に振り回されて、疲れきって深くソファーに腰を下ろす。何やってんだろうなって時間の浪費だったと後悔する。

 

 

 やたらと自分の周りに敵をつくりたがる人が理解できない。わざわざ叩く対象を探して、本人に直接言えないくせに罵倒する。本当に馬鹿だと思うよ。

 

 

 

 明日はもっといいに日になると思って目を瞑る。たまにどん底まで暗くなる自分に嫌気がさす。もっと楽観的に享楽的に上手に生きていきたい。

めぐる

 自我を持たず、誰かの模倣や追随で生きている人は話していてもあまり面白くない。会話とはその人のことを知るためのツールの一つで、談笑やらをするだけのものではない。「誰か」で自分を固めた人と話したって、その人のことは分からない。染まらない自分を持った人は面白い。

 

 

 自分や相手のことを完全に理解したと勘違いして、達観している気でいる人や偏頗で凝り固まったモラリティーでもって人に語りかける人はまさに危険人物と言える。何でもかんでも鵜呑みにすると、そのうち食い違ったモラリストに成り果ててしまいそうだ。そう思わせる人と遭遇した時、自分では対処しきれないと思って後ずさる。

 

 

 外で電車が走る音やどこかで奇声を発しながら遊んでいる子供の声が聞こえるほど、森閑とした部屋で何をするでもなく、時間が過ぎていくのを見たり、あんまり行ったことのない道で帰ってみたり、なんてことない日常が好きだ。人と話すのが疲れたのなら距離をとればいい。逃げることは自分を守ることだ。逃げることは悪い事じゃない。

 

 

 本当に弱い人は助けてとは言えないし、本当に死にたいと思っている人はそう易々と死にたいなんて言わない。だから、軽々しく「助けて欲しけりゃ助けてって言え」とかそう言うことを言うのはあまりにも配慮が足りないんじゃないだろうか。本当に助けたいなら自分もそれなりの覚悟でもって対応するべきだ。

 

 

 「一つずつの小さな現在が続いているだけである」と言う宮沢賢治の残した言葉がある。小さな積み重ねの上に立っているのが自分だとすれば、積み重ねを懶惰した生活を送った自分はそれでも現在に続いていけるだろうか。取り残されてはいないだろうか。

 

 

 毎日色んなことを考えながら生きている。人間は考える葦であると言うけれど、小さな事から大きな事まで色んなことを考えながら人は生活している。いろんな人の頭の中で組み立てられるアルゴリズムを完全に理解することは難しいけれど、考えとか想いを互いに伝えながら人は知らず知らずのうちに意思疎通を行っている。今日も明日も伝わるか分からないまま、想いをぶつけながら話をする。そしてまた、くだらないことを考えながら生活する。

かわる

 ずっと暮らしてきた町や友人が時間の流れの中で自分の知っているものとは違うものに変わっていく。「あそこのコンビニなくなったのか」とかそう言う目に見えるものが、潰れては新しくなってを繰り返しているのを見て時間の流れの速さに驚かされる。

 

 人の意外な一面を見た時、仮初めの警戒心を抱く。関係は近ければ近い程、嫌な部分が大きく見える。それを見た時人は、「こいつも変わったな」と言うのだ。

 

 変わっていくものに対する一抹の 寂しさと不信感に振り回されながら、今日も刻一刻と変わり続ける。町も友人も、また自分も。