バームクーヘン

 随分と長い間話していない人が大勢いる。もう今やどうなってるのか見当もつかない。そんな中、1人、久々に連絡を取った友人がいる。懐かしさと自分の知らない内に変わった一面を見た戸惑いで今頭の中でぐるぐると一連の会話が廻る。人の性格は遺伝によるものではなく、その人を取り巻く環境によって構成される。環境が変われば人も変わる。自分の見知った当時の人物像と照らし合わせるとやっぱりどこか違っていて、まるで別の人と話してるように感じたりもした。それがなんだか寂しいというか、ぽっかり穴が空いたような感覚がある。「変わった」と思うのは、過去と現在の差を一挙に見せられた時だ。まさに今回がそれにあたる。とにかく、断絶された数年間で友人が自分にはあまり合わないオーラを纏っていたから、これからもうあんまり話さないだろうなとちょっと寂しさを感じた。

 その友人と話してからというもの、やっぱり穴が空いたような感覚がある。何かを失くした感覚。自分にその意識はないが、どこか淡交をもって良しとする自分がいるんじゃないかと思ったりする。ある程度距離があった方が人間上手くいくんじゃないかと思う気持ちも確かにあって、何が正解かとかは正直自分にはわからない。そんなことも相俟って、今、向こう側の景色を覗かせる大きな穴が一つある。バームクーヘンみたいな穴がある。

狐の嫁入り

 

 雨が降っている。雨の日は独特のにおいがする。苔が生えるんじゃないかと思うほどジメジメしている。小さい頃、狐の嫁入りが不思議でならなかったのを覚えている。俗に言う天気雨だが、地球がおかしくなったんじゃないかと思った。

こんな具合に、子供の頃は発見やら不思議がそこら辺に転がってて飽きることがなかったように思う。コロンブスがアメリカ大陸を発見したように、ヘルツが電磁波を発見したように、僕は泥団子を磨くとツルツルになることを発見したし、言葉は絆創膏にもナイフにもなり得ることを発見した。子供にとっては、偉人の大発見と同等のものがある。

 

  今となっては往時渺茫のことで、もう忘れてしまったことが沢山ある。小学校の頃の記憶なんて断片的にしか残っていない。色んなことを学ぶ時期に自分は何をしていたのか。もしかしたら自分は、2017年現在からこの星に突如発現したのではないかとか思ったりする。

 そんな宇宙人みたいなやつにも旧友がいて、久々に話すといろいろ思い出してノスタルジックになる。古い記憶を共有できる人がいるのはいいことだ。と言ってもまあ、十年前まで小学生だった若者に分類される身としては、古い記憶と言っていいのか正直わからない。これからもっと古くなる記憶をどれほど覚えていられるだろか。

 

 つい最近狐の嫁入りを見た。昔見たそれと照らし合わせて見ても、やっぱり不思議な光景だと思った。

メソッド

 もう近所の公園から蝉の声が聞こえてきて、夏の訪れを感じる今日この頃。長袖で外に出たことを後悔しながら、夏を感じている。

 

  最近立て続けに悪いことが起きていて、今ちょっとネガティブになっている。そこで友人は嫌なことは考えないようにしてポジティブに考えるようにすると言っていた。人によってこう言う時の処理の仕方には違いがあるんだなと思った。自分は皮肉屋だから、むしろ考え込んで辛いことを直視して(※マゾヒストな訳では無い)、あとは時間が解決してくれるのを待つと言うなんとも回りくどい方法を取る。割り切ることができずに悶々と考え込む人間はこうやって処理する他ないのである。どうしても考えてしまう。時効になってやっと安心することができるのである。比較的外交的な友人はおそらく理解できないだろう。友人が理解できないように、自分も友人を理解できない。つまりお互いの方法を理解することに意味はなくて、そういう方法もあるのだと知ることに意味を見出す必要がある。今もこうやって文字に起こして処理している。

 

 暑さに加えて気だるさもあるが夏は好きだ。かき氷に埋まりたい。

梅雨で滴る

 6月に入りもう梅雨の季節で、半袖でも生活できるような時期に入った。なんかここ数年で時間の流れがかなり加速したように感じる。この前まで寒い寒い言ってた気がする。5月の気だるさも抜けきらないまま時間だけが過ぎる。

 

 この前ペットショップで猫を見ていたら、店員さんに「抱っこしますか?」と言われて、抱っこすることになった。この世の生物とは思えない可愛さだった。それからというもの、猫を飼いたくてたまらない。あの店員さんのマーケティングにうまくはまってる気がする。

 

 今年に入って電車に乗ることが増えた。毎日同じ時間帯の電車に同じ乗客。その電車に乗ったらここ!って言う定位置があったのに、最近は毎日同じおっさんが絶対その定位置にいるからやりきれない気持ちで渋々扉付近に立っている。だから朝はそのおっさんと定位置を巡って勝負しないといけないのだ。妥協すれば解決するが、なんとなくそのおっさんに負けた感じがするからこれからも定位置争奪は諦めないつもりだ。

 

 たぶんあっという間に夏が来て蝉のやかましい声に苛まれることだろうと梅雨も入ってまだそんなに経っていないが思ってしまう。じめじめした気候と空気感でダラダラしそうだ。ぼろぼろと零れて無くなっていく時間を一つ一つ無駄にしないように生きていく。

祭りのあとの

 ゴールデンウィークも終わり、祭りのあとの静けさみたいな空気に包まれて、何もなかったかのように苦と隣合わせの日常が始まる。

 

 今年のゴールデンウィークは毎年のそれとは違って、少し疲れた。何処かに遊びに行ったりはしてないが、無駄な時間は過ごしてない。と思いたい。GWは必ずしも遊びに行くことでのみ意義がある訳ではないと強く訴えたい。無駄な時間は過ごしてないと自分に言い聞かせる。

 

 人より傑出した人でも、無能で怯える人でも等しく死が訪れる物語が好きだ。生きてほしいと願う登場人物が呆気なく死んでしまい、それから劇的に復活みたいな展開もない、ただただ死についてリアルに描かれている物語は個人的にすごく美しいと思う。生命の儚さを感じ、自分も同じくその儚い命を抱えて生きていると思わせてくれる。より一層簡単に死んだらだめだと思えてくる。

 

 ゴールデンウィークの話に戻す。

 

旅行に行った家族、長期自宅学習になってしまった学生、人それぞれが思い思いの連休を過ごした事だろう。なにも連休だけが休みじゃないわけで、平日にも休息の時間は探せばどこかにある筈だ。多分何処かに埋もれてる。

七つの大罪

 七つの大罪と言えば聞いたことがある人も多いだろう。自分はその中で言えば、圧倒的に怠情である。つまり大罪を犯している。面倒臭いとか物事に意味を見いだすとたちまち怠惰の権化と化すのである。

 

 大罪なんて言い方してるけど、その大罪を一つも犯してない完璧な人間はどこか、人間味に欠けている気がしてならない。欲のない人間はおそらく何もしないし、何も出来ない。そいつらと上手く共存する必要があり、人間性を構成する上で必要な要素なのである。自分の一部であるが故に、呪いみたいに付き纏う。気に入らないことがあれば、妬み、憤怒し、威張り散らすのだ。

 

 穏やかで達観している人であれ、美醜を含んだ複雑な感情を抱えている。今も自分の中で七つの大罪が犇めき合って、表へ出ようとする。

砂時計

 自分はあまり友人が多いほうではないと思っている。多分そうだろう。今まで何百人と出逢ってきて、今ちゃんと話したりする人数は片手で足りてしまう。幼稚園から高校までに出逢ってきた大体の人数から計算すると、その中で「友人」と呼べる人は1%ぐらいだった。他の人がどうかは知らんが、友人なんてそんなもんだ。片っ端から誰でも友人だと言うのなら、もう少しいるだろうけど。。。知らず知らずのうちに出逢った人の中で淘汰された人を友人と呼んでいるのだ。どんな綺麗事言ったって、みんな選んでる。そんなもんだ。

 

 SNSのフォロワーの人数=ステータスだと思っている人がいるが、果たしたそれはいかがなもんだろうか。そんな数字に執着したって、実際話すのはその極わずかではないだろうか。それに全く羨ましいとか思わない。別に多いのが悪い訳じゃないけど、その数値でもってしたり顔でいられても困る。

 

 どんな所にいても、人との繋がりを怠らない世の中で、世知辛い思いをしたことがないと言えば嘘になる。何でこんなこといちいち複数人でやるんだよと思うこともいっぱいあったし、グループ作れで困ったこともあった。でもそんな中でもまだ友人と呼べる人が何人か残っている。今まで幾度となく疎遠を繰り返した。いつかまた、今いる数人もどっか行っちゃうんじゃないかとか思ったりする。そうなった時自分はどうするだろうと考える。多分そんなにしつこく追いかけないだろう。去る者追わずのスタイルがここ数年で体に染み付いてしまった。1人でいる時間が好きだが、別に人を嫌ってる訳では無い。寡黙な性格してるから、多分話しかけずらいんだと自らを自己分析したりして、努力はしたがやっぱりそう簡単に性格は変わらなかった。それでも生憎、そう言う性格の自分が嫌いな訳でもない。周囲にどう思われようが知ったことではない。所詮自分の周りは大体が他人だから。それに気楽だ。人間関係のしがらみから解放されている分、他の人よりストレスが少ないんじゃないだろうか。多分、何言っても負け犬の遠吠えにしか聞こえないんだろうな。

 

 今、出逢ってきた何百人は何処で何をしてるのだろうか。もう随分話さなくなったあいつは何をしてるのだろうか。疎遠になった人達は砂時計の下に落ちていった砂だ。砂が落ちきっても尚、落ちずに上に残った砂を俺は大事にしたい。