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めぐる

 自我を持たず、誰かの模倣や追随で生きている人は話していてもあまり面白くない。会話とはその人のことを知るためのツールの一つで、談笑やらをするだけのものではない。「誰か」で自分を固めた人と話したって、その人のことは分からない。染まらない自分を持った人は面白い。

 

 

 自分や相手のことを完全に理解したと勘違いして、達観している気でいる人や偏頗で凝り固まったモラリティーでもって人に語りかける人はまさに危険人物と言える。何でもかんでも鵜呑みにすると、そのうち食い違ったモラリストに成り果ててしまいそうだ。そう思わせる人と遭遇した時、自分では対処しきれないと思って後ずさる。

 

 

 外で電車が走る音やどこかで奇声を発しながら遊んでいる子供の声が聞こえるほど、森閑とした部屋で何をするでもなく、時間が過ぎていくのを見たり、あんまり行ったことのない道で帰ってみたり、なんてことない日常が好きだ。人と話すのが疲れたのなら距離をとればいい。逃げることは自分を守ることだ。逃げることは悪い事じゃない。

 

 

 本当に弱い人は助けてとは言えないし、本当に死にたいと思っている人はそう易々と死にたいなんて言わない。だから、軽々しく「助けて欲しけりゃ助けてって言え」とかそう言うことを言うのはあまりにも配慮が足りないんじゃないだろうか。本当に助けたいなら自分もそれなりの覚悟でもって対応するべきだ。

 

 

 「一つずつの小さな現在が続いているだけである」と言う宮沢賢治の残した言葉がある。小さな積み重ねの上に立っているのが自分だとすれば、積み重ねを懶惰した生活を送った自分はそれでも現在に続いていけるだろうか。取り残されてはいないだろうか。

 

 

 毎日色んなことを考えながら生きている。人間は考える葦であると言うけれど、小さな事から大きな事まで色んなことを考えながら人は生活している。いろんな人の頭の中で組み立てられるアルゴリズムを完全に理解することは難しいけれど、考えとか想いを互いに伝えながら人は知らず知らずのうちに意思疎通を行っている。今日も明日も伝わるか分からないまま、想いをぶつけながら話をする。そしてまた、くだらないことを考えながら生活する。